第2章(6)首相を引きずり下ろすことは極めて難しい

長期連載:日本化するイギリス政治、イギリス化する日本政治*1

目次
序章:日本人初の英国与党党本部での経験を勝ち取るまで
第1章:イギリス与党保守党本部から見たイギリスの政府・与党
第2章:イギリス議会から見たイギリスの首相と国会議員
 (コラム)「ブツブツうるさいバカ」という首相の失言で幕を開けた議員秘書生活
 (1)バックベンチャーという哀しい響き
 (2)有権者からの陳情対応では政府との中立性を保つ
 (3)庶民院議員は週に1日半を地元で過ごす
 (コラム)庶民院議員の家庭生活
 (4)与党のバックベンチャーは造反行動で存在感を示す
 (5)与党議員でもバックベンチャーの影響力は弱い
 (コラム)イギリス政党における派閥
 (6)首相を引きずり下ろすことは極めて難しい
第3章:ロンドン市長選挙対策本部から見たイギリスの選挙
第4章:イギリス政治のインサイダーから見た2015年総選挙
第5章:ロンドン大学政治経済学院(LSE)から見た日英政治比較
終章:日本化するイギリス政治、イギリス化する日本政治

本文
 個別の政府方針に対して与党のバックベンチャーが影響力を行使することが難しい一方で、与党のバックベンチャーが現職の首相や党首を引きずり下ろして交代させることはどうであろうか。幸か不幸か、イギリスではそのいずれも日本と比べると難しいのが実情である。それもそのはずである。首相・党首を引きずり下ろすことが容易であるならば、それをテコにして、個別の政府方針に影響力を行使することも容易なはずである。逆に、個別の政府方針に影響力を行使することが容易であれば、それを人質に首相・党首を追い込み、引きずり下ろすこともまた容易なはずである。このあたりの整理は後段にまわすとして、ここでは、首相・党首を引きずり下ろすことが、イギリスでは難しい事情を紹介したい。

 まずイギリスには、権力の座にある首相・党首を強引に引きずり下ろすことは良しとされない文化がある。1990年にサッチャー首相を引きずり下ろすことに成功したマイケル・ヘーゼルタイン氏は、その後の党首選挙で勝利することができず、「ナイフを振りかざしたものは王冠を手にすることはできない(he who wields the knife never wears the crown)」という有名な言葉を残した*2。2007年から2010年の労働党ブラウン政権下で、次の首相の最右翼とみなされていたデイビッド・ミリバンド氏は、こうした文化を考慮してか否かは分からないが、最後までブラウン首相下ろしの先頭に立つことはなかった。当時、リーマン・ショックの直後でブラウン政権に対する、国民の支持率は非常に低く、デイビッド・ミリバンド氏による党首交代・解散総選挙が期待されていた。それでも、ミリバンド氏は動かなかったのである。

 首相・党首の地位に対する敬意は文化的なものだけではなく、党首選挙の民主化という形で、正当化されてきていることも事実である。日本の自民党民主党の総裁・代表選挙においては、一般党員・サポーター票が導入され、それが拡大され続けているとはいえども、国会議員票や地方議会議員票が全体の大きな割合を占める。一方で、イギリスの保守党は1998年から、庶民院議員による予備選挙を経たうえで、党首の最終候補者二名の間の決選投票は、一般党員も庶民院議員も合わせて、一党員一票制(one member one vote)で行われる。労働党は2010年までの党首選挙では、庶民院議員・欧州議員、選挙区労働党労働組合などの三者が三分の一ずつの投票権を持っていたが、2015年の党首選挙からは予備選挙なく全ての候補者が、一党員一票制で行われる予定である。党首選挙の手続きがこのように民主化された結果、そのような手続きを踏んで選出された党首を引きずり下ろすことに対しては、よりその正当性が問われることは言うまでもない。

 首相・党首の地位の民主的な正当性は、さらに、安定的な政党支持率という形で強化されることもまた、イギリスの特色であろう。イギリスは伝統的には、労働者階級を支持基盤とする労働党と、上流階級・中流階級を支持基盤とする保守党、という社会構造に根差した主要政党の支持基盤があった。そのため浮動票の割合が小さく、仮に首相・党首のパフォーマンスが芳しくなくても、政党支持率が乱高下することはなかった。党首の選出は過去のことであるため、仮に現在の政党支持率が非常に低い場合には、首相・党首を引きずり下ろすことへの正当性は高まるが、この政党支持率が安定的であれば、やはり首相・党首を引きずり下ろすことへの正当性は低くなる。もっとも、近年ではイギリス社会的の流動性が高まり、かつての階級社会が姿を薄めつつあるといわれ、同時に、浮動票の割合も増えていると言われている。そのため、日本と比較した違いは小さくなってきてはいる。ただ、二大政党の支持率がよほどのことがない限り30%を下回らないという点では、いまだに政党支持率が安定的であるということも事実である。

 さらに、首相・党首の地位の民主的な正当性は、選挙によって問われることになるが、ここでも選挙敗北の責任論で首相を引きずり下ろすことが容易ではない。その原因は国政選挙の実施頻度と実施タイミングにある。日本の国政選挙が1993年以降、平均で約1.5年に一度実施されている一方で、イギリスの国政選挙は同じ期間で約4年に一度しか実施されていない。日本の首相は1.5年という短いサイクルで、支持率の維持そして国政選挙での勝利という実績を積み重ねない限り、その地位は脅かされる。それに対して、イギリスではそのサイクルが平均で4年であり、そのサイクルは比較的長い。またそのタイミングについても、イギリスの場合は庶民院にしか選挙がなく、首相はその庶民院に対して解散権を持っていたため、より有利なタイミングで選挙をすることができた。日本の首相が三年に一度の参議院の選挙タイミングをコントロールすることができないことと比較すると、イギリスの首相はその点でも地位を防衛することについて優位に立っていた。ただ、イギリスでは2010年から2015年まで続いた連立政権において、与党間の選挙のタイミングをめぐる駆け引きを封じるために、2011年に定期議会法(Fixed-Term Perliaments Act 2011)が導入され、首相に対する不信任決議の可決を除いて首相の解散権を封じたため、現時点では首相がフリーハンドで解散のタイミングを決められるわけではない。2015年の総選挙で連立政権から保守党の単独政権になったことで、この定期議会法を取り消すか否かが注目される*3。この点については今後の動向は不確定だが、全体としてはイギリスの与党議員から見れば、選挙敗北の責任論で首相を引きずり下ろすことはやはり容易ではない。

 最後に、イギリスの二大政党である保守党も労働党もいずれも、野党である間は毎年定期的に党首選挙が行われる一方で、与党である間は党首選挙が行われないことになっている。党首が首相でありながらも、例外的に党首選挙が行われるのは、保守党であれば所属庶民院議員の15%以上からの要請があった場合、労働党であれば党大会の投票で過半数の要請があった場合のみとされている。保守党における党首不信任決議の要求などは非公開で行われるが、仮に不信任案可決が失敗に終われば、その犯人探しが行われることは想像に難くはない。「定期的な党首選挙で現職候補に挑戦する」ことに対して、「あえて党首不信任を現職候補に突きつける」ことの政治的なリスク・コストは高い。

 以上みてきたように、イギリスの与党のバックベンチャーの立場からは、(1)文化的な背景からも、(2)党首選出や政党支持率、国政選挙結果などを踏まえた民主的な正当性からも、(3)党内の手続き的な観点からも、首相を引きずり下ろすことが難しいのである。

*1:本連載に記載の事実や認識は、個別に示されたものを除き、2015年9月時点のものである。

*2:BBC http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/politics/728507.stm

*3:追記:結果的には2017年にはメイ首相が、2019年にはジョンソン首相が必要な法律を成立させて、議会を解散して総選挙を行った