第4章(3)ナショナリズムの不確定要素は「政権選択」を複雑にした

目次
序章:日本人初の英国与党党本部での経験を勝ち取るまで
第1章:イギリス与党保守党本部から見たイギリスの政府・与党
第2章:イギリス議会から見たイギリスの首相と国会議員
第3章:ロンドン市長選挙対策本部から見たイギリスの選挙
第4章:イギリス政治のインサイダーから見た2015年総選挙
 (1)イギリスの総選挙における4つの投票パターン
 (2)不確定要素の焦点は二つのナショナリズムであった
 (コラム)ブレグジットへの通過点としての2015年
 (3)ナショナリズムの不確定要素は「政権選択」を複雑にした
第5章:ロンドン大学政治経済学院(LSE)から見た日英政治比較
終章:日本化するイギリス政治、イギリス化する日本政治

本文
 三つ目の投票の選択基準は主要政党の党首であった。それはすなわち、誰を首相にしたいかという問いであり、その候補はキャメロン首相の続投か、労働党ミリバンド党首による政権交代かしかなかった。元来シンプルなこの問いが、複雑化したのは、一つ目の党是の広がりに表れている主要政党の増加が原因である。そのため、二大政党のいずれが第一党となっても、単独過半数を得ることはないとみられたのである。そのため、だれを首相にしたいか、だけではなく、残りの政党のどの党に連立政権入りしてほしいか、または、残りの政党のどの党には連立政権入りしてほしくないか、という問いが重要な意味を持つようになった。その結果、保守党が第一党になった場合に、これまで通り自由民主党と連立政権を組むのか、それでは足りず、ほかの政党を連立に組み込む場合にはそれはどの政党になるのかという点で、政権の構造が有権者から見えづらくなった。また、労働党が第一党になった場合には、自由民主党は連立に入るのか、スコットランド国民党は連立に入るのかという点で、同様に、政権の構造が有権者から見えづらくなった。そして、それは実際の選挙戦の中で重要な意味を持つこととなった。

 2012年に私がイギリスにいた時点では、このような規模での二つのナショナリズムの高まりは顕在化していなかったが、元来のシンプルな質問に関してはミリバンドの分が悪いと読んでいた。それは世論調査という形で有権者の評価として表れていたし、それが構造的に変えることが難しい課題であったからだ。

 まず、有権者からの評価は、世論調査会社YouGovの過去の世論調査における「野党第一党の党首としてよくやっていると思うか」という問いの回答に表れていた。その回答の「はい」から「いいえ」を引いた数字を追うと、それは、その後その野党第一党の党首が政権交代を実現させたかどうかと非常に相関が高いことが分かる。すなわち、有権者がよくやっていると思えば数字はプラスに、有権者がダメだと思っていれば数字はマイナスになる。そして、数字がプラスであればやはり政権交代の確度は歴史的に高い。ミリバンド野党第一党の党首になって15か月目のその数字はマイナス46であり、その数値を、図1の歴代の野党第一党の党首二年目の評価の平均値にプロットしてみた。ミリバンドの数値が、政権交代を実現できなかった歴代の野党第一党の党首の評価に近かったことは、一目瞭然である。世論調査の数字としては政党支持率が代表的であるが、野党時代には支持率があがることと、選挙の直前の半年で大きく変化することもあり、数年先を見通す上ではこの指標がより精度が高いものと考えられている。

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図1 先行指標に見る野党第一党党首2年目のミリバンドの情勢

 そして、彼はその評価を覆すことが構造的に難しい悪循環に陥っていた。ブレア政権時代にも詳しいイギリスの政治学者は、その悪循環の本質を次のように見ていた。ミリバンドは党首になる支持基盤も、党の運営資金も労働組合に依存している。労働組合に依存しているから、労働組合の意向に反するような、財政再建策を提示できない。信用に足るような財政再建策を示せないから、中道層の支持を獲得したブレアとは異なり、労働組合以外からの支持が得られず、支持率が伸びない。支持率が伸びないから、個人献金も伸びず、党の運営資金の労働組合依存が高まる。

 コラムの中でも紹介したようにミリバンドはオックスフォード大学PPEコースの出身で、LSEという世界でもっとも多くのノーベル賞受賞者を輩出している大学の大学院で経済学修士を取得している。それにもかかわらず、彼は議会においても、議会の外においても、キャメロン政権の緊縮財政を批判するばかりで、経済・財政政策の対案を示すことができていなかった。「これを削るとこういう問題がある」と指摘するばかりで、「では、政権交代前の財政支出規模のままでよいのか」「では、代わりにどこを削減するべきなのか」という素朴かつ本質的な疑問に答えることができていなかった。

 その理由は彼の権力の存立基盤にある、と先の政治学者の指摘には納得感がある。分かりやすく言えば、誰に支えてもらって党首になり、誰のお金で党を運営しているか、ということである。労働党の最大の支持基盤である労働組合である。ミリバンドが兄と争った党首選において、兄の優勢が伝えられながら、土壇場で逆転した背景には、三大労働組合エド・ミリバンド氏を支持したことがある。当時の労働党の党首選挙の仕組みの中で三分の一の投票力を持っていた労働組合票で多くの支持を取り付けた。それにより、議員票と党員票で負けていたエド・ミリバンドが兄のデイビッド・ミリバンドに勝利した。さらに、労働組合エド・ミリバンドを党首選挙で支えただけではなく、その後の労働党の資金源の九割以上を支えていた。一般に政党が野党に下ると献金金額が減少する方向にあるため、支持基盤の労働組合への依存が強まりやすい傾向はある。ただ九割という数字は、直近の労働党の状況と比較しても、かなり突出した数字だった。通常以上に個人献金が減少して、さらに労働組合への依存度合いが高まったのだ。

 労働組合は、当時の連立政権のあらゆる財政再建策に反対の姿勢を貫いていた。年金削減には反対であり、授業料の値上げにも反対であり、多くの補助金の削減にも反対であり、消費税増税などもっての外であった。そしてその代わりに、高額報酬で妬まれる銀行員のボーナスへの課税などを訴えていた。ここでは経済学的にどちらが正しいのかということへの論評は控える。ただ重要なことは、イギリス社会全体、もしくは、労働党が政権に復帰するために支持を取り付けることが必須である中道の有権者にとっては、連立政権の経済・財政運営の方が信用に足るとみられていたということだ。

 このような点でどうしても議論に弱さが残ってしまうミリバンドは、週に一度の首相のクエスチョンタイムでの論戦でも、どうしても、キャメロンにやり込められたという印象が続いた。そして、理由づけ・論理としての世界での「弱さ」はしだいに、より感情に近い世界で、リーダーの資質としての「弱さ」として刷り込まれ、中道層からの支持が遠のいていった。「この悪循環を断ち切るには、『労働組合の意向に反して、信用に足る財政再建策を提示する』というギャンブルが考えられる」と私は当時のブログに書いている。しかし、ミリバンドの側近として選挙戦を戦ったチームへの綿密な取材に基づいたガーディアン紙の記事*1によると、選挙戦を戦うチームでもこの問題の重要性が認識されながらも、チームとしても方向性に合意できないまま、ミリバンドは決断の時を逸した。そして、何もしなかった(Miliband's un-doing)、と書かれている。

 最後に、有権者にとっての投票の主要な選択基準の四つ目である、新聞各紙や専門家の支持であるが、こちらは、5年間を通じてあまり大きな変化がなかった。2010年の政権交代の原動力ともなった最大のタブロイド紙であるサンは引き続き保守党を支持していた。変化の要素としては、特に有権者の関心が高く、三大政党で差別化の余地があった経済・財政政策に関して、連立政権の実績しだいで変化の余地があった。その意味では、二つ目の選択基準に関する全体のトレンドと軌を一にしていた。そして結果的に、連立政権の経済・財政政策は評価され、新聞各紙の支持としても保守党への支持が続く結果となった。

 まとめると、有権者が投票する候補者≒政党を選択する基準に照らした際に、重要政策、次の首相としての党首の評価、新聞各紙・専門家からの評価という点で、過去5年間、保守党は着実に点数を稼いできていた。その一方で、主要政党の党是という観点からは、英国独立党が劇的に勢いを増し、二大政党の伝統的な支持層の一部が英国独立党に流れることが決定的となっていた。そして、選挙戦の行方を左右する残る不確定要素は、二つのナショナリズムの高まりの行方と、それによる、有権者の「政権選択」の判断の難しさであった。