第5章(8)なぜ、日本の民主党はイギリスモデルの輸入に失敗したのか

目次
序章:日本人初の英国与党党本部での経験を勝ち取るまで
第1章:イギリス与党保守党本部から見たイギリスの政府・与党
第2章:イギリス議会から見たイギリスの首相と国会議員
第3章:ロンドン市長選挙対策本部から見たイギリスの選挙
第4章:イギリス政治のインサイダーから見た2015年総選挙
第5章:ロンドン大学政治経済学院(LSE)から見た日英政治比較
 (1)日本の民主党政権ではイギリス式の政策決定プロセスの導入に挫折した
 (コラム)LSEのキャップストーン・プロジェクト
 (2)拒否権プレイヤーのフレームワーク
 (3)イギリスは拒否権プレイヤーが少なく、好みが似ている
 (4)イギリスの首相/党首は拒否権プレイヤーに強い影響力持つ
 (5)イギリスの有権者は、政策への影響力が限られている
 (6)イギリスの地方議員とロビイング団体も、政策への影響力が限られている
 (コラム)イギリスのシンクタンクのトレンド
 (7)結果として、イギリスの首相は「公選独裁者」とも呼ばれる権力を得る
 (8)なぜ、日本の民主党はイギリスモデルの輸入に失敗したのか
終章:日本化するイギリス政治、イギリス化する日本政治

本文
 ここまでは、イギリスの首相の方が日本の首相よりも大胆な政策変更が行いやすい理由について述べた。ここでは、こうした理解に基づいて、私が留学時代にイギリスに留学先を変更した際の問いの後半である「日本の民主党政権がイギリスから取り入れようとした制度はなぜうまく機能しなかったのか」という問いについて答えたい。ここでは特に、民主党が掲げた政官の接触禁止と政策調査会の廃止が、野田政権の末期には自民党時代の状態に回帰していた理由に焦点を絞る。

 まず、政策調査会が復活して、事前承認制に回帰したのはなぜか。政策調査会は2009年まで、野党時代の民主党内の政策審議・決定機関として機能してきた。自民党には政務調査会という名の似たような機関があり、民主党政策調査会も元々はこれをモデルとして作られたものと考えられる。そして、民主党政権交代を実現した2009年、与党による政策の事前承認制が派閥政治や利権政治の温床であると批判してきた民主党は、政府与党の一元化を目指して政策調査会を廃止した。しかし2010年に鳩山首相が退陣を表明すると、民主党内の代表選挙で菅直人は、事前承認ではなくあくまでも事前審議の場として政策調査会を復活させることを党内への公約に掲げて首相・代表に就任した。さらに、2011年に菅首相の退陣に伴って首相に就任した野田首相は、政策調査会を事前承認の場として復権させた。

 これまで見てきたように、日本の統治機構の中では、拒否権プレイヤーである与党議員に対する首相・政府の影響力が低い。乱高下する支持率のハネムーン期間を過ぎると、政権側にはその求心力がなくなり、与党議員へのコントロールが効きづらくなる。そのため、政府提出法案を閣議決定する前に、事前に与党議員と調整して承認するプロセスを経なければ、法案審議が難航することとなる。2009年の政権交代直後の熱気が冷めた2010年、民主党政権は戦後最低となる5割強の法案成立率を記録した。もちろん、ねじれ国会の困難もあったであろうが、政権交代前のねじれ国会での自民党政権は8割から9割程度の法案成立率を維持した。ほとんどの場合は造反という目に見える形ではないが、そこには至らない目に見えない形で、与党議員が抵抗力を発揮したとみるべきだろう。

 ひるがえってイギリスの場合には、保守党に1922委員会というバックベンチャーのための機関があるが、事前承認機能を持たないことは既に述べた。それは逆に言えば、与党議員との事前調整・承認というプロセスを経なくても、政府提出法案を高い確率で成立させることができる首相・政府の権力の強さを物語っている。かつては「首相を呼び出す」と言われるほど影響力が強かった1922委員会だが、20世紀全体を通じて、徐々にその影響は力弱体化し、逆に首相の権力は強大化していった。その過程における、首相・政府側による改革内容がまさに、首相の影響力の源泉として指摘してきた、議会運営の主導権の議会から政府への移転や、政府ポジションの増加、党首選挙の民主化、マスメディアの影響力拡大に伴ってその度合いを増した党首・政党中心の有権者の投票行動である。

 こうした、日本とイギリスにある、首相・政府による与党議員に対するコントロールという本質的な違いを無視して、与党議員による事前承認というプロセスを廃止したことは、非合理的だったということと理解できる。

 そして、政官の接触禁止が事実上撤回されていったのはなぜか。それは、端的に言えば政官の接触を通じて、官僚が与党議員に調整をして周らないと、政策論議が前に進まなかったからであろう。与党議員との事前の政策調整が重要である一方で、大臣をはじめとする政務三役は国会審議や行政府での本業で拘束され、与党議員と調整をする時間もない。イギリスであれば政策領域ごとの院内幹事が調整をして周ることも可能だが、日本にはそのようなリソースもなかった。至れり尽くせりで極めて円滑な事前準備を求める日本の文化も、人的リソース不足に拍車をかけたかもしれない。結果的に、官僚に頼らざるを得ない構造から脱却することができず、「自民党政権時代に限りなく近い」と言われるシステムに回帰した。

 イギリスのように与党内の事前承認制がなく、政官の接触が禁止されていることが望ましいかどうかは別問題である。だが、仮にそれが目指すべき正しい道だったとして、民主党はその実現に失敗した。その理由は統治機構の上位構造を無視した、表面的な違いの指摘と是正から生じたのである。