第5章(5)イギリスの有権者は、政策への影響力が限られている

目次
序章:日本人初の英国与党党本部での経験を勝ち取るまで
第1章:イギリス与党保守党本部から見たイギリスの政府・与党
第2章:イギリス議会から見たイギリスの首相と国会議員
第3章:ロンドン市長選挙対策本部から見たイギリスの選挙
第4章:イギリス政治のインサイダーから見た2015年総選挙
第5章:ロンドン大学政治経済学院(LSE)から見た日英政治比較
 (1)日本の民主党政権ではイギリス式の政策決定プロセスの導入に挫折した
 (コラム)LSEのキャップストーン・プロジェクト
 (2)拒否権プレイヤーのフレームワーク
 (3)イギリスは拒否権プレイヤーが少なく、好みが似ている
 (4)イギリスの首相/党首は拒否権プレイヤーに強い影響力持つ
 (5)イギリスの有権者は、政策への影響力が限られている
終章:日本化するイギリス政治、イギリス化する日本政治

本文
 次に、有権者の政策への影響力について考察したい。有権者が実際に政策にどのような影響力をもっているかを直接的に測る指標が見当たらないため、ここでは、影響を与えられる機会の頻度と、影響力の源となる内閣支持率政党支持率の推移の二つについて、イギリスを日本と比較してみたい。

 どちらも他の先進国と例外なく、選挙を通じて選出した議員が立法活動を行うという意味で、間接民主制を採っている。したがって、影響を与えることができる頻度とはすなわち、国政レベルにおける選挙の頻度のことである。イギリスの国会は折に触れて記してきたように、その一院を担う貴族院は公選制ではないため、選挙が存在しない。そのため、イギリスの国政レベルでの選挙とは庶民院議員の選挙である。庶民院議員の選挙、つまり総選挙は、イギリスでは1992年からの平均で約4年に一度である。総選挙で政権を選択するということは、その次の4-5年は一つの政権に国の政治を託すというのがイギリスの仕組みである。一方で日本の国政選挙を考えてみると、衆議院議員選挙と参議院議員選挙の二種類がある。衆議院議員の任期は4年間であるが、任期満了前の衆議院の解散による総選挙も頻繁にある。また、参議院議員の任期は6年間であるが、半数改選であるため3年に一度、参議院議員選挙がある。結果的に両者を合わせると、1992年からの平均で1.5年に一度、日本には国政選挙がある。日本の有権者は単純計算で約三倍もの頻度で、政策に対して影響力をもつ機会があることになる。逆に首相の立場からすると、日本の首相はイギリスの首相と比べて、三分の一の期間で何らかの成果を出しながら、選挙で勝ち続けることが政権維持のためには必要となる。

 また、内閣支持率政党支持率については絶対的な水準とその変動が重要となる。日本とイギリスの世論調査では質問が異なるため、直接的な比較は難しいところがある。しかし、内閣支持率についても、政党支持率についても、その比較特徴はイギリスの支持率が日本と比べて比較的安定的であるということである。まず内閣支持率であるが、世論調査会社Ipson MORIの1997年からのデータ*1によると、通常は3割から4割程度で安定的に推移している。ブレア政権発足直後の内閣支持率がもっとも高かった年でも6割を超えることはなかった。また、ブラウン政権のリーマンショック直後を除くと内閣支持率が2割を割り込むことも稀であった。一方で、社会実情データ図録*2によると、1991年の宮沢内閣以降、日本の内閣支持率が政権発足直後の高い支持率から、一年以内に3割程度も急降下することは決して珍しいことではなかった。政党支持率については、支持政党という概念とはやや異なるが、Ipsos MORIの世論調査*3にある「一般的にあなたは自らを、保守党、労働党自民党、もしくはその他の政党のいずれと見なしていますか」という問いが興味深い。日本の政党支持率でいうところの「支持政党なし」にあたる回答が、10%から15%程度である。日本の政党支持率については、NHK放送文化研究所の政治意識月例調査*4によると、支持政党なしが3割から5割の水準で推移している。

 このように、イギリスの首相が比較的安定した支持基盤の上で、有権者からの審判を受ける頻度が限られる中で政権運営を行うのに対して、日本の首相は比較的不安定な支持基盤の上で、頻繁に有権者からの審判を受けながら政権運営を行っている。有権者の政策に対する影響力を直接的に測る指標はないものの、このように考えると、日本の有権者の方がその影響力が大きいと考えるのが妥当ではないだろうか。

 次に、有権者の政策選好について考察したい。有権者個々人の政策選好の違いには、前提となる情報の違い、同じ情報に基づく政策の結果に対する見方の違い、同じ政策の結果に対する価値観の違いなど、様々な要因が考えられる。一般に、争点が一つであり、なおかつ、各個人が持つ選好が単峰型選好 (single peaked preferences) である場合には、中位投票者定理(Median Voter Theorem) が成立し、選好の中間地点に位置する投票者である中位投票者の選好が、社会的な選択となる。現実的な例えではないが、例えば、大きな政府と小さな政府だけが争点であれば、有権者の好みの真ん中にいる人間の好みが大きな政府なら大きな政府が、真ん中にいる人間の好みが小さな政府なら小さな政府が、真ん中にいる人間の好みが中くらいの政府なら中くらいの政府が、選択されるというわけだ。したがって、情報の違いについても、見方の違いについても、価値観の違いについても、社会全体が単峰型の正規分布に近い社会構造では、個々の政策課題について中位投票者定理が成り立ちやすく、社会的に大きな構造変化がない限り、社会的な選択が現状からは動きづらいと考えられる。逆に、社会全体に断絶があり、対立構造の社会構造が存在する場合には、その社会構造の重心が右から左へ、左から右へと揺れ動くことで、社会的な選択が変化しやすい。

 そのような対立構造を生む社会構造としては、一般に、所得、学歴、民族、宗教等が存在し、先進諸国においては、こうした対立構造に根差して政党の支持基盤が形成されることが多い。例えば、(現在よりも先鋭的であった)かつてのイギリスの階級社会では、低所得・低学歴層と高所得・高学歴層に根差して、労働党と保守党が対立していた。また、アメリカは、人種で言えば白人と非白人、宗教で言えばカトリックプロテスタントという対立軸に根差して、共和党民主党の支持基盤が存在する。日本の場合には、良い意味で、このような社会的な亀裂がなく、総中流社会、非コスモポリタン社会、政治的な無宗教社会であるからこそ、情報、見方、価値観のそれぞれで、イギリスとの比較では、単峰型の正規分布社会に近いのではないだろうか。イギリスではその社会構造の重心の変化が、政権選択の変化につながり、その選択の結果として、首相と与党が形作られているため、より政策変更が生じやすい土壌であると考えられる。

 以上のことから、イギリスの有権者は日本の有権者との比較において、政策への影響力が限られる上に、社会構造の重心の変化に応じて政権選択が生じているため、与党議員に拒否権を発動させづらい構造であると考えられる。

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[図1] 有権者の影響力とその選好