第4章(7)別の未来はあったのか-労働党と自民党の悔恨-

目次
序章:日本人初の英国与党党本部での経験を勝ち取るまで
第1章:イギリス与党保守党本部から見たイギリスの政府・与党
第2章:イギリス議会から見たイギリスの首相と国会議員
第3章:ロンドン市長選挙対策本部から見たイギリスの選挙
第4章:イギリス政治のインサイダーから見た2015年総選挙
 (1)イギリスの総選挙における4つの投票パターン
 (2)不確定要素の焦点は二つのナショナリズムであった
 (コラム)ブレグジットへの通過点としての2015年
 (3)ナショナリズムの不確定要素は「政権選択」を複雑にした
 (4)直前の世論調査ではハング・パーラメントが確実視されていた
 (5)保守党のキャンペーンの本質は何だったのか:フレーミング、40/40、死んだ猫、くさび…
 (コラム)もっともらしくイギリス政治の未来を占うには
 (6)なぜ、保守党は単独過半数で圧勝できたのか
 (7)別の未来はあったのか-労働党と自民党の悔恨-
第5章:ロンドン大学政治経済学院(LSE)から見た日英政治比較
終章:日本化するイギリス政治、イギリス化する日本政治

本文
 大半の予想を覆して保守党による単独過半数で終わった2015年の総選挙だが、別の未来もありえたのだろうか。歴史に「もしも」は無いものの、労働党関係者と自民党関係者の悔恨の声を聞いた。

 労働党関係者の共通した悔恨は、なぜ、ミリバンドを党首から替えることがことができなかったのか、ということに尽きる。本章で繰り返し言及している通り、キャメロン首相と比較したリーダーとしての弱さの印象や、イギリスの総選挙におけるその重要性は、少しイギリス政治に詳しい人間なら誰もが知っていたことである。実際のところとしても、2012年、13年、14年と何度かミリバンドを引きずり下ろす動きは出ていたにも関わらず、それは実現しなかった。

 まず、労働党に近い関係者の声としては、「ミリバンドがなぜ党首から引きずり下ろされなかったのか」は、良い質問であるが、「逆に誰が彼を代替することができたの」かという点で答えがない、という意見が多かった。ブレア政権やブラウン政権の時代に、次の首相としてもっとも注目されていた、兄のデイビッド・ミリバンドは、2010年の党首選挙で弟のエド・ミリバンドに敗れた後、2013年には次のキャリアのために議員辞職をしていた。労働党政権で閣僚を歴任したアラン・ジョンソンには、党首となる可能性があったが、彼は自らその可能性を否定した。2015年に入ってからも、ミリバンドを下ろしてアラン・ジョンソンを党首に据える話が出ていたが、結果的には、ジョンソンにその気がなく実現しなかったと言われている*1。影の大蔵大臣であったエド・ボールズは人柄も良く非常に頭も良いが、一方でイギリスのユーロ圏入りの否定をブラウンに進言した人物でもあり、労働党内であまりにも政治的な敵が多いとされている。

 次に、保守党関係者の声を紹介する。まず指摘されたのは、イギリスにおける政権準備のための長い時間である。そもそも、イギリスの主要政党の仕組みでは、党首を交代するためには長い時間がかかる上に、独自色のあるマニフェスト作りも含めて、選挙の準備にも1年以上の長い時間がかかる。2013年にイギリス経済が上向き始め、それによって、ミリバンドの戦略がうまくいかないことが分かった時には、すでに時間切れだったのではないかという指摘だ。ちょうどその頃、ミリバンドは2013年秋の党大会では非常によい演説を行い、反対派の声を押さえたことも事実だろう、声もあった。また、世論調査において野党の支持率が高く出るバイアスなどもあり、なかなか、引きずり下ろすには決定打が無かったという指摘もある。最後に、労働党は保守党とは違い、より感傷的であり、少なくとも近年は、党首を引きずり下ろしたことがないはずだ、という政党文化を理由に挙げる声もあったことを紹介する。

 翻って自民党は選挙前の57議席が8議席にまで減少する、壊滅的なダメージを受けており、自民党本部で中心的な働きをしていたインタビュー相手の声は、むしろ吹っ切れてさばさばとしているように聞こえた。彼は自民党の敗北の理由として、連立政権における少数派パートナーとしての政権運営のジレンマと選挙キャンペーンのジレンマ、そして、保守党のキャンペーン戦略とそれを利した選挙資金制度の3つを挙げていた。

 まず第一に、大学授業料値上げの問題は、2010年総選挙のマニフェストを守らないというよりも、自民党支持者の間では、むしろマニフェストに対する裏切り行為と捉えられ、自民党の「信頼」を揺るがせる結果となったことが最大の問題であったと語った。それはまさに、少数派のパートナーとして連立政権入りしたことにより生じた政権運営上のジレンマであり、振返れば、それが最大の敗因であったようだ。

 第二に、自らの選挙キャンペーンにおいてポジティブなナラティブが欠けていたと反省をしていた。2015年の選挙でも、選挙後に連立政権入りする可能性が高いとみられていたこともあり、2010年の総選挙のマニフェストにおける大学授業料のように踏み込みすぎた政策が入らないように強く注意をしていたが、逆にそのような注意深さのために、マニフェストとして他の政党と差別化することが難しくなり、そのジレンマに悩まされたと語る。さらには、差別化が難しいがゆえにむしろ、小さな違いを取り上げて、二大政党と自民党を比較することにばかり腐心してしまい、自分たちが何を実現したいのかについて、ほとんど語りかけることができなかったことを反省した。結果的に、自民党のキャンペーン全体のトーンとして、自民党は何かネガティブなものを止めようとしたり、リスクを緩和することに価値があるということが前面に出てしまい、敢えて自民党に投票する積極的な理由がなくなってしまったと分析する。これはまさに、連立政権の少数派のパートナーであるがゆえに生じた、選挙キャンペーン上のジレンマであった。

 第三に、保守党の勝因である保守党のキャンペーン戦略・戦術とそれを利する選挙資金制度を理由に挙げた。保守党のキャンペーン戦略と戦術については、フレーミングの仕方、リソースの集中投下などが非常によく機能したことを率直に認めた上で、それらは大政党に有利な選挙資金制度に支えられており、自民党には不利な条件であったことも指摘していた。イギリスの選挙資金制度については、候補者個人のキャンペーンの選挙資金については、ショートキャンペーンとロングキャンペーンともにその使途に厳しい制限がある。他方で、政党としての国全体のキャンペーンの選挙資金については、圧倒的に高い上限が設けられており、これが大政党に有利だというのだ。政党としての国全体のキャンペーンとしての位置づけを保ちながら、政策のフォーカスを少しずつ地域によって変えることで政党としてのキャンペーンの資金を用いて、地域ごとにターゲットした活動に用いることができた。このようなリソースを用いて、SNSやDM、電子メール、電話などを保守党は大々的に活用して、いわゆる40/40の戦術を展開していたと語る。

 最後に彼は、自民党の再生のために必要なことも語ってくれた。一般有権者には自民党と価値観を共有する多くの方々がいる一方で、彼らの投票行動が自民党への投票とつながっていないと見ており、その巻き込みが鍵だと話す。そのためには、当然のことながら、優秀なリーダー、ポジティブなメッセージ、リベラルのムーブメント、コミュニケーションの巧みさが求められるが、それに加えて、貴族院におけるプレゼンスの活用が求められていると言う。選挙の無い貴族院には、総選挙での大敗北とは関係なく、多くの自民党議員がおり、彼らの投票行動により、自民党は依然として国政において意味のある存在でありつづけることができるのであり、その資産を積極的に活用するべきだと話す。