第1章(コラム)首相官邸・ナンバー10に「お邪魔しました」

長期連載:日本化するイギリス政治、イギリス化する日本政治*1

目次
序章:日本人初の英国与党党本部での経験を勝ち取るまで
第1章:イギリス与党保守党本部から見たイギリスの政府・与党
 (1)保守党は組織とは呼びづらいモザイク状のコミュニティ
 (2)党本部は党首を支援するキャンペーンのプロ組織
 (コラム)保守党本部の職場環境
 (3)保守党調査部はエリートを抱え政治的ストーリーをつくる
 (4)保守党国際部は党の外交機能を持つ
 (5)税金を投じて途上国の政治に投資する
 (6)政党間国際連盟を通じて政党外交を行う
 (コラム)首相官邸・ナンバー10に「お邪魔しました」
第2章:イギリス議会から見たイギリスの首相と国会議員
第3章:ロンドン市長選挙対策本部から見たイギリスの選挙
第4章:イギリス政治のインサイダーから見た2015年総選挙
第5章:ロンドン大学政治経済学院(LSE)から見た日英政治比較
終章:日本化するイギリス政治、イギリス化する日本政治

本文
 保守党での仕事を通じて首相官邸を訪れる機会が二回あった。テレビやYouTubeで何度も見たことのある、黒い扉のついた首相官邸である。首相官邸はその住所である10ダウニング街(10 Downing Street)からとって、通称、ナンバー10と呼ばれる。黒い扉の真ん中に「10」と書かれているのもそのためだ。一度はIDUリーダー会議のレセプションが首相官邸で開かれた際に、もう一度は、調査部での仕事の最終日にツアーをしていただいた。

 首相官邸の所在地は日本でいう霞が関である、ホワイトホール(Whitehall)という官庁街に面して内閣府(Cabinet Office)があり、内閣府と連結してその裏側に首相官邸がある。両脇には外務省と今では観光名所となっているホース・ガーズという建物に挟まれている。内閣府はホワイトホールという通りを挟んで防衛省の向かい側に位置しており、真偽のほどは定かではないが、内閣府から防衛省につながる地下通路があると言われている。首相官邸には閣議室があり、また、首相官邸とつながる内閣府の地下には通称コブラと呼ばれる内閣府ブリーフィング室(Cabinet Office Briefing Room)があり、ここで有事の際の危機管理が行われる。そうした有事対応に重要な場所と防衛省が地下のトンネルでつながっているというのは、非常に自然な話ではある。また、首相官邸の隣にはナンバー11と呼ばれる大蔵大臣公邸があり、そのさらに奥には昔は院内幹事の公邸として使われていたナンバー12がある。しかし、表向きのこうした住所に対して、実際には、これらは全て中でつながっており、ブレア元首相はナンバー11に住んでいたり、現在のナンバー10の居住エリアはナンバー12まで広がっていたりと、柔軟な運用がされている。

 IDUリーダー会議の二日目の木曜日、私は会場となっていたジェントルマンズクラブから、レセプション会場の首相官邸に向かって、参加者一行を案内していた。自分が入れるはずがないと思い込んでいて、ダウニング街という通りの入り口にあるセキュリティチェックの場所まで参加者を案内して、一緒に案内していた議員秘書とともに脇で待っていた。「自分たちは何をしていればいいんだろう?」というような会話をしていたが、「せっかくだから、並ぶだけ並んでみよう」と参加者一行の列の最後に並んだ。セキュリティ・チェックではレセプションの招待状と身分証の確認を行なっていて、その横には、保守党国際部のスタッフが名簿との照合をしていた。参加者全員がチェックを終えて中に入ると、国際部のスタッフが議員秘書と私を指して、「彼らは一緒に働いているスタッフよ」とセキュリティ担当者に告げ、我々が身分証を見せると、なんと中に入れることに。「まさか」「まさか」とは思っていたが、あの、首相官邸に入れるのかと思うと心躍った。

 セキュリティ・チェックを通り抜けてしばらく歩くと、首相官邸の前にたどり着いた。「10」と書かれた首相官邸の黒い扉の裏側には、警備員がいて、首相や招待客が自分で扉を開くことはない。前に立つとこの警備員が扉を開けてくれる。扉の中に入ると左側には小さく区切られた箱があり、そこに、自分たちの携帯電
話を置くように求められた。官邸内は写真を撮ることができない。その携帯電話を置いた箱のすぐ脇には子どもを乗せるおもちゃが置いてあり、ここが「住居」なのだということを思い出させてくれた。首相官邸はもともと、純粋に住居として設計されて、その後、必要な機能に応じて改装されてきた。現在の首相官邸の役割は首相の住居であり、首相のオフィスであり、首相が来賓客をもてなす場所である。

 玄関から中に入りレセプション会場がある二階に向かう階段は、あの、有名な黄色い壁の階段であった。壁一面にこれまでの歴代の首相の絵が飾られている。現役の首相の絵はなく、首相の座を退いてから絵が飾られるため、当時の最後の絵はゴードン・ブラウン元首相であった。階段を上がったところにレセプション会場の入り口があった。私はワインを飲みつつノルウェイやその他の国の代表者と話をしていると、やがて、キャメロン首相が現れて、一言ずついろんな人に挨拶をして、短いスピーチがあった。私の上司である国際部ディレクターのブルーム氏が参加者を紹介しながら、キャメロン首相を案内して回っていた。レセプション会場は食べ物や飲み物がふるまわれる部屋の横に、もう一つの部屋があり、その両方が使われていた。合計一時間強の時間だったが、どこの国の首相・大統領の官邸にも入ったことはなく、忘れることのできない思い出になった。レセプションが終わり、官邸を出たところで、参加者は一様にあの黒い扉をバックに記念写真を撮っていた。普段は自分の写真を撮りたがらず、「写真を撮って」などということのない私だが、この時ばかりは他のスタッフにお願いして携帯で写真を撮ってもらった。

 二回目に首相官邸を訪れたのは調査部での仕事の最終日だった。一回目はレセプションにたまたま参加しただけであったので、中の案内などは受けられなかったが、今回は中のツアーをしてくれるということで、中を案内してもらった。先日のレセプション会場に加えて、閣議室、来賓客と食事をするためのダイニングルーム首相官邸で仕事をしているスペシャル・アドバイザー(政治任用の役職)が働いている部屋など一通り案内してもらった。官邸のすぐ裏側にはホース・ガーズがあり、窓から外を見ると、普通に観光客が歩いている。そこから少し手前に視線を落とすと、小さな滑り台などの、子どものためのちょっとした遊具がある。「首相のオフィスではなく住居として建てられた」という言葉通り、家の中に突然オフィススペースがあるような雰囲気で、出る際には思わず「お邪魔しました」と言いたくなってしまったのを覚えている。

*1:本連載に記載の事実や認識は、個別に示されたものを除き、2015年9月時点のものである。