第5章(コラム)LSEのキャップストーン・プロジェクト

目次
序章:日本人初の英国与党党本部での経験を勝ち取るまで
第1章:イギリス与党保守党本部から見たイギリスの政府・与党
第2章:イギリス議会から見たイギリスの首相と国会議員
第3章:ロンドン市長選挙対策本部から見たイギリスの選挙
第4章:イギリス政治のインサイダーから見た2015年総選挙
第5章:ロンドン大学政治経済学院(LSE)から見た日英政治比較
 (1)日本の民主党政権ではイギリス式の政策決定プロセスの導入に挫折した
 (コラム)LSEのキャップストーン・プロジェクト
終章:日本化するイギリス政治、イギリス化する日本政治

本文
 LSEの公共経営学修士プログラムの2年目はキャップストーン・プロジェクトと呼ばれる、実際のクライアントに対するコンサルティング・プロジェクトを授業の一環として行う。プログラムの学生全体を4人程度のグループに分け、それぞれのグループが、担当する先生の指導の下で、それぞれ異なるクライアントに対して、異なるプロジェクトを行う。私は卒業後にこのような経験を得る希望があることを先生に伝えていたこともあり、希望通り、庶民院のプロジェクトが担当となった。2008年にイギリス議会に導入された法制後精査(Post-Legislative Scrutiny)という、新しい制度が成功しているかどうかを評価した上で、改善に関する提案を行うプロジェクトである。この制度の特徴は、行政府ではなく立法府である庶民院の特別委員会(select committee)という、政府の各省庁別の委員会が、その精査の主導権を握り、過去に制定された法律を評価するというところにある。プロジェクトでは既に精査が行われた9つの法律に関して、その精査の質を評価するとともに、まだ精査が行われていなかった2005年ギャンブル法(Gambling Act 2005)に対して、プロジェクトチームが仮精査を行うことで、この法制後精査という制度そのものに対する問題点・改善点を抽出するというアプローチを採用した。

 2005年ギャンブル法の仮精査は活動としては非常に興味深いものだった。この法律は労働党政権下で制定されたものだが、その目的はギャンブルを犯罪から切り離し、開かれた公正なものであることを確かにし、子どもや弱い大人を守ることだった。一方で、明確には目的の一部として書かれてはいないものの、その「土台」の一部として、「この重要な産業を責任ある行動で発展させる」という文言が含まれており、また、法律制定に至る2003年からの議論の過程からも、産業発展の側面をアジェンダの一部としていたことも間違いがない。したがって、ギャンブルの健全性の強化とギャンブル産業の発展という、大きく分けて2つの観点からの精査・評価が必要であった。

 ここで余談だが、イギリスにおいてギャンブルは、文化の一部でもあり、荒廃の象徴でもあり、そして、成長産業でもある。先のコラムでも示した通り、イギリスではありとあらゆることが賭けの対象となる。通常のカジノにあるようなカードゲームやスロットに加えて、サッカーやテニスなどのスポーツはもちろんのこととして、さらには、政治や金融市場まで賭けの対象となる。政治では過去の例であればたとえば、2015年5月の総選挙の直後には、次の総選挙の結果が賭けの対象となっていたし、2016年のアメリカ大統領選挙に勝利する政党、各政党の大統領候補が誰かという、外国の政治までまで賭けの対象となっていた。一方で、問題ギャンブラー(problem gambler)と呼ばれるギャンブル中毒になってしまう大人や、インターネットでもギャンブルができるようになり親のクレジットカードでギャンブルにのめりこんでしまう子どもが出てくるなど、問題点も多い。ロンドンの街を歩くと少し郊外の小さな駅も含めて、いたるところに、ウイリアムヒルやラドブロークなどのギャンブル会社のお店があり、中毒者と思われる人々がお店の前でビールを飲む光景がひろがっている。アルコール中毒とも並ぶイギリスの問題点の一つだ。

 この法律の精査をするにあたって、まずは、実際にこの法律を担当している特別委員会の委員長であるジョン・ウィッティングデール議員(その後の保守党政権で文化・メディア・スポーツ省大臣に就任)や、その委員会を担当している事務員(Clerk)からブリーフィングを受けて、どのようなポイントを特に精査する必要があるか確認した。その上で、この法律の所管省庁である文化・メディア・スポーツ省の担当者、この法律を受けて設立された規制当局であるギャンブリング・コミッション、ギャンブル企業、ギャンブルの業界団体、問題ギャンブラーに対面・電話でのカウンセリングなどを提供するNPOなど、様々なステークホルダーのインタビューを行った。こうしたインタビューを通じて、特にギャンブルの健全性という点での規制当局側の問題意識を理解するとともに、産業発展という点でのギャンブル企業や業界団体の不満を理解した。

 その上で、そうした意見や問題意識を調査レポートや統計情報などのデータで裏付けを行った。結果的には、ギャンブルの健全性という観点からは積極的な改善の裏付けがなく、むしろ、統計的には有意ではないものの否定的な兆しがでていた。さらには、ギャンブル産業の発展という観点からも、法律制定後のカジノ開発の欠如、課税対象とはならない国外の企業を中心としたオンライン・ギャンブルの発展、ライセンス導入による行政・企業双方の事務コストの増加など問題が生じていた。そのため、チームの精査結果としては非常に厳しい内容となった。

 このプロジェクトは二人のトルコ政府官僚と、ブルガリア出身の学生と私の四人で進めた。プロジェクト期間中にトルコ人のメンバーに子どもが生まれたため、その前後は彼が忙しくて、どうしても活動が思うように進まない時もあった。お互いに全く異なる経歴をもって学びにきているし、それぞれの国の文化も違うので、意見が合わないこともたびたびあった。提出期限一週間前には、思うように作業が進んでいなかったことから、あるメンバーは、他のメンバーの「いつドラフトが出来上がるのか」という問いに逆ギレして、ケンカのためにしばし作業を中断をすることもあった。提出期限前日は、LSEの図書館に集まって四人全員で徹夜で作業を続けた。

 LSEの図書館にはそうした野戦キャンプ状態で作業をする学生がいることを見越してか、床に大きなビーズクッションが置いてあり、そこで仮眠をとることもできる。我々は図書館の一角に陣取って、ビーズクッションやら普通の椅子やら思い思いの作業場所を確保して、英語のエディットを行う者、読み合わせをして誤字・脱字をチェックする者、引き続きまだコンテンツを良くしようともがいている者、それぞれがそれぞれの役割を果たしながら最後の最後まで作業を継続した。結果的には、全体としてあまり成績が良かった方ではない私だが、このキャップストーン・プロジェクトについては優(distinction)を得ることができた。

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写真 キャップストーン・プロジェクトの仲間とともに(左からトルコ政府官僚の2人ん、私、ブルガリア出身の学生)